友人からのメッセージ

  • 「市橋隆雄さんを支える会」代表 片岡国輝 より
  • ホームページ作成担当 伊藤幸一 より

  • 「市橋隆雄さんを支える会」代表 片岡国輝 より

    私は市橋君と、小学校1年生から、中学校3年生までの9年間で、6年間同じクラスで勉強しました。
    彼の子供時代は勉強が良くできました。しかし、ひ弱なガリ勉タイプではなく、いつも私 達のガキ大将で、山や川で遊んだことを昨日のように、なつかしく思い出されます。
    彼の家も私の家と同じように、貧しい様でしたが、そんなことは臆面にも出さず、いつも 明るく元気いっぱいの少年でした。
    彼は特に字を書くのが上手で、書き方をいろいろ教えて貰いましたが、私は今だに字はう まくなれません。
    中学1年生の時だったと思いますが、彼と将来の夢を語り合った事があります。私はその 時、物理学者(笑われるかも知れませんが、理科が好きだったので)と、言いました。
    彼は哲学者になりたいと言っていたことを思い出します。
    私の少年時代は彼の影響が(良い方面で)、多分に有ったと思います。
    しかし高校生になると、学校が違ったこともあって、会う機会も少なくなり、疎縁になっ てしまいました。私としては、もっと彼からいろいろなことを学び取りたかったのですが。

    高校3年の時の彼からの年賀状に「人知るもよし、知らざるもよし、我が道を行く成り」と書かれていました。それを読んで私は私なりに、自分の人生で努力していこうと、決心しました。
    それ以来彼とは、連絡も取ることもなく、三十数年過ぎてしまいました。
    私は社会人になってからは、何とか貧困生活からぬけだそうと、自分のため、家族のため、会社のため、人のことなどどうでもいいと、がむしゃらに生きてきました。残念ながら今だに、たいした良い生活はしていませんが。
    彼がアフリカに行ってみえることは、知っていましたが何をやっているか、あまり興味を持ちませんでした。年月とは、恐ろしい物です。

    昨年彼が帰国され、彼の生活、考え方を聞いたとき、私は自分の事しか考えずに生きてきた自分に、恥ずかしさを、覚えました。
    彼のことは、すでにご承知だと思いますが、私とは全く違った、人の為に生きるという考えに、衝撃をうけました。そして何よりもすばらしい事は、いろいろな困難にも、すべて前向きに、取り組んでみえることです。そこに、少年時代の明るいガキ大将の彼の面影が、よみがえってまいりました。
    私は、生まれてこの年になるまで、人の為になるようなことはした覚えが、ありません。
    彼に少しでも、応援出来たら今後の私の人生感も、多少変わるのではないかと、考えました。

    今回、彼を支援する会が設立され、たまたま、(成り行きで)私が代表世話人に担ぎ上げ られました。私としては、力不足かも知れませんが、精一杯がんばるつもりです。
    是非、この会の趣旨に一人でも多くの方に、ご賛同していだき、市橋君の活動を成功させ たいと思っています。 皆さん、よろしくおねがいします。

    片岡国輝


    ホームページ作成担当 伊藤幸一 より

    人との出会いとは実に不思議なものである。

    もうはるかな昔40年前になるだろう。小学校時代の市橋さんは背も高かったし、ソフトボールやその他運動では群を抜いていてクラスでも目立った存在だった。
    彼が参加したチームはいつも優勝していた。
    私は運動はまるでだめでもっぱら好きな理科系の方面に熱中していた。

    中学高校と進むうちにお互いの消息も途切れ、私は電気技術者の道を歩み、工業高校卒業と共に、そのときまさに始まった日本の高度成長期の大きな流れに飲み込まれるように、毎日汗と油にまみれた日々を送ることになった。
    その頃から、ほとんどの大学では大学紛争が活発化していたが、自分には縁のない世界であった。
    市橋さんたち大学生は紛争に明け暮れ学業もままならず、ありとあらゆるアルバイトで若いそのエネルギーを発散していたようだ。

    私が結婚し子育てにそれなりの平穏な日々を過ごしている頃、彼は海外青年協力隊としてアフリカに渡り、そのあまりに違った世界、戦争と流血、飢餓で消えていくおびただしい命の中、私腹を肥やす独裁者たちを見ていた。革命と内乱という個人の力ではどうすることもできない状況で、挫折し帰国を余儀なくされたが、その困難で絶望的な状況にもかかわらず力強く生きている民衆の瞳に、人生観を覆す衝撃を受けたそうだ。

    私は一企業の組織のなかにすっかり入り込み、ささやかな趣味と子育てに明け暮れて歳月は経ち、いつのまにか中高年と呼ばれる歳になっていた。
    50歳に手が届く頃、北米オハイオへの転勤を命じられた。私は初めて体験する異国の文化、そこに住む人々の大陸的とでも言おうか、私企業や個人の私利私欲に明け暮れる日本とはあまりに違った価値観に圧倒される思いであった。
    偶然に出会った米人家族たちの家庭に半ばホームステイしているような日々を3年間過ごし、彼らは決して押し付けこそしなかったがキリスト教会につながる道を歩むことになった。

    帰国して、私が通っている地元の教会を、牧師となりケニヤでの宣教活動をしていた市橋さんが訪れたのは驚きと感動であった。
    波乱の人生を歩んでこられ、これからもますますその困難に立ち向かって行こうとする彼との再開は、お互いに大いなる神の計画であるかのごとく感じた。
    自分にはやりたくても果たせない夢を現実にやっている人がいる。
    その人のなしていることを応援し、成功を祈り、できる範囲でお手伝いしたい。
    そう思った私は早速、彼に当面私にできる支援活動である彼のホームページ作成を持ちかけた。
    経済不況で所属教会からの支援を絶たれ、新たなスポンサーをさがすという困難で日本中を駆け巡る限られた日々の中、我々は幸運にも話し合える時が持てこの計画は始まった。
    オハイオの教会の友人たちも、英語版のホームページの完成を祈り心待ちにしている。

    20世紀は全世界的に戦乱と大量虐殺の世紀であった。21世紀になっても地域紛争、及びその結果としての悲惨な生活環境や飢餓は絶えそうにない。
    それでも人種、民族、社会階層の違いを越えて共に生きる共同体への試みと実践は続けていこう。今、我々人類は国境を越えて意思の疎通を可能にしたインターネットを自由に 使えるのだから。

    2000年11月  伊藤幸一

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